「やまとこく」、「やまだいこく」などとも呼ばれる。また、耶馬台国とも記述される。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング
弥生時代の2?3世紀に日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。
邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70?80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。
邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。
「魏志倭人伝」中の邪馬台国
以下は「魏書」東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に記述された邪馬台国の概要である。諸説あり、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らない。
邪馬台国までの道程
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部に当時あった郡[1]から邪馬台国に至る道程が記されている。
倭国に至るには、帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。また海を1,000余里渡ると末盧国に至る。東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。
漢書で一般的な1里=約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立って直線距離で考えると、上陸地点から陸行500里の伊都国は、九州北岸から200km東南の宮崎県=日向としか読めない。(江戸時代以前の国学者は、そう考え、後の耶馬台国までの記事は誤記と考えた) そこから単純に100里+100里=200里が不弥国(大隅半島付近?)と考えると、さらに10日南に水行する邪馬台国なるものは日本列島を飛び越えて太平洋上になってしまう。このため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。
邪馬台国の政治
邪馬台国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70?80年を経たころ、漢の霊帝の光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。
女王は鬼道[2]によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子[3]が飲食の世話や取次ぎをしていた。
卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある[4]。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もまず男王が立っていることから、これは疑わしい。
邪馬台国の人口は7万余戸。長官は伊支馬で、次に弥馬升、その次に弥馬獲支、次に奴佳碑。
対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[5]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり、特に男王卑弥弓呼が治める南の狗奴国とは不和で戦争状態にあった。
邪馬台国の北方の諸国には一大率(一支率)という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率の役所は伊都国にあり、魏の刺史[6]のような役目を果たしていた。伊都国は外交の中心地で、魏や韓の国々の使節や通訳は、ここに停泊して文書や贈物の点検を受け女王に送っていた。
租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。
女王は景初2年(239年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。
卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹与(台与)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壱与を諭しており、壹与もまた魏に使者を送っている。
魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。
景初2年(238年)[7]、6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。悦んだ皇帝は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
正始元年(240年)、帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(244年)、女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした。
正始6年(246年)、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年(248年)、女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹与で、魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。
風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。
男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。
邪馬台国のその後
3世紀半ばの壱与の朝貢を最後に、義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国と後のヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。
邪馬台国に関する論争
邪馬台国があったとされる根拠は、「魏志倭人伝」に残されている(参照→Wikisource)ほか、これ以外の中国の史書にも記載がある。ただ、史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、その書物が記された時代の音読として「やまたいこく」が正確かどうかも統一的な理解はない。また、日本国の正史である「古事記」や「日本書紀」に、邪馬台国や卑弥呼の実像を明確にするには記述が不十分である[8]ことなどから、その場所や大和朝廷との関係について長期的な論争が続いている。
この論争が始まったのは、江戸時代後期、新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」という立場から、「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州)にあった小国であり、卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長であると説いた。これ以来、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。ここでは、邪馬台国をめぐる様々な論争を紹介する。
邪馬台国の音
「邪馬台国」は「やまたいこく」と読まれるのが現在では一般的である。この「邪馬台」を「やまたい」と読んだのは国学者の本居宣長が最初であると考えられている。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「やまと」と読んでいたことがわかる。しかし本居宣長は国学の立場から大和朝廷との同一性を否定し、あえて「やまたい」と読んだ。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、必ずしも正確な読み方ではない。ましてや古代中国の『三国志(魏志倭人伝)』が記された時代に、どう読まれていたかも正確なところは不明である。
『三国志(魏志倭人伝)』の版本[9]では「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」[10]、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では「魏志にいう邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」となっている[11]。表記のぶれをめぐっては、「壹」を「臺」の誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いなかったとする説[12]などがある。
「邪馬壹國」と「邪馬臺国」のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある[13]。しかし、「邪馬壹國」は「やまいこく」であり、「やまと」とは別の国であるとする説も在野に根強く残っている。また、古い日本語では同一語根内に母音が連続しないことから、やまい(ya・ma・i)は不自然とする意見もある。
位置に関する論争
邪馬台国の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。古くは『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきた。江戸時代には、新井白石や本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表した。明治時代に入って論争が始まり、多数の説が提唱されてきた。これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。もともとは学者間の論争であったが、1967年に発表された宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(講談社)という書籍によって邪馬台国論争は「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及した。
二大仮説
邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれている。九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。
かつて、畿内説は「魏志倭人伝」の方角表記が誤っていると考える研究者(「連続説」、主に京都大学系)に多く見られ、九州説は距離表記が誤っていると考える研究者(「誤記説」、主に東京大学系、白鳥庫吉及び内藤湖南を参照)あるいは榎一雄に代表される「放射説」を取る研究者に多く見られた。また、最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「魏志倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。
畿内説で用いられる「連続説」(連続読み)とは、魏志倭人伝に記述されている方角や距離に従って比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対馬国・一支国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。一方、九州説で用いられる「放射説」(放射読み)は、伊都国までは連続読みと同じだが、その先は伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。
なお、宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。
また、近年の考古学的成果、特に年輪年代学による新しい年代観により、大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代の2世紀頃までさかのぼるとの説が有力になっている。これを踏まえ、現在ではプレ大和王権と邪馬台国と直接結びつくのか(あるいは初期の大和王権と邪馬台国が同一のものなのか)が論争の焦点となっている。他方、新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成されているために、独立した検証が不十分なためである。
畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち大和王権がこの時期既に成立していたとの見方ができる。
一方の九州説の立場を取ると、邪馬台国は九州の地方王権に過ぎないことになり、3世紀に大和王権が存在していたかどうか疑わしくなる。邪馬台国の位置を巡る論争は、日本国家の成立を解き明かす上でも重要な位置を占めている。
畿内説
畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。
年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期?古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。
吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること[14]。
北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること[15]。
弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年?244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[16]。
逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。
倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[17]。
「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること[18]。
「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読めること[19]。
かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊が「全て漢鏡ではない」と発表していることなどから、九州説の側から「全て偽作である」という反論を受けている。[20]。
邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説もあるが、大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。
九州説
九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。
帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里[21]では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[22]。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[23]。
魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[24]。
その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[25]。
一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権のあずかり知らないことであるとするものがある[26]。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。
奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと[27]。
中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。
魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[28]。
3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したのものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
魏の年号である「青龍3年」、呉の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない[29]。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。
また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。
旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。
近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。
それ以外の説
上記の二大説に加えて、吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信越、岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ケ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。
それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」にまとめられている。
一方、『魏志』の記述を元に候補地を探す諸説に対し、そもそも記述に作為があるため、それをもとに邪馬台国の位置を探るのはナンセンスである」という指摘もある[30]。
^ 景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した帯方郡とは限らず、当時楽浪郡の支部になっていた玄兎郡故府の可能性もある。
^ 卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。左記の説について慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。
^ 弟とする説がある。
^ 後の推古天皇と聖徳太子との関係が例として挙げられる。
^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
^ 大きな行政単位の州の巡察長官。
^ この年は遼東の公孫淵の滅亡の直前であり、戦乱の最中に遣使は困難であるとして、『梁書』・『日本書紀』が引用する「魏志倭人伝」の記述に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとすのが通説である。ただし、卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたからという観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦『『邪馬台国』はなかった』 角川文庫 1977年)もある。
^ 日本書紀の卷第九の神功皇后の記述に、魏志倭人伝の引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述がある。神功皇后と卑弥呼を同一人物とする説は那珂道世によって否定された。また、市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。
^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。
^ 日本語読み「やまたいこく」。
^ 日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では「壹」は壱か一、「臺」は台と書く。
^ 『三国志』には「臺獄」や、死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これを否定する説もある。
^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、邪馬臺は「jamatö」に近い発音となると考えられている。
^ 卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は、その代表例。
^ 九州説では後世の偽作と見ている。
^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
^ しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
^ 当時の畿内住民が南方系の習俗を持っていたかどうかは不明。
^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである、混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
^ ただし九州説の側も「全てが偽作」であることの論証を明確にしているとは言い難く、オリジナルのものが伝来した可能性自体を排除できてはいない。逆に畿内説の側は、多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まるにも関わらず、邪馬台国とは無関係であるとするのは逆に無理があると再反論している。
^ 佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍。
^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、かれが邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
^ 当時の北九州以外における一般的な埋葬方法はまだ良く分かっていない。
^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)。現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降、衰亡したとする説。学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。)。
^ もちろんこれをそのまま信じていいのかには疑問もある。
^ 九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
^ 一般的には概ね魏の領域と考えられている。
^ 邪馬台国までの12,000里という距離は、同じく魏が金印を贈った国として知られる大月氏のそれと等しいことから、邪馬台国を大月氏に匹敵する国である位置づける意図があったとする(岡田英弘の説)。