2009年06月16日

デーデルライン (Döderlein) 桿菌とは、健康な成人女性

デーデルライン (Döderlein) 桿菌とは、健康な成人女性の膣内に生息する多数のグラム陽性桿菌である。この名称は発見者にちなんで付けられた。特定の菌種を指すものではなく、主としてラクトバシラス属から構成されるさまざまな菌の集団である。成人女性の膣上皮には、女性ホルモンの働きによってグリコーゲンが蓄積するが、これらの乳酸菌は剥離した上皮細胞のグリコーゲンを栄養源として定着している。これらの菌が産生する乳酸によって膣内のpHは酸性に保たれており、このことによって他の病原細菌の侵入増殖を阻害する。すなわちデーデルライン桿菌は、膣の自浄作用を担い、生体バリヤーとしての役割を果たしていると考えられている。

グリコーゲン (glycogen) とは、多数のα-D-グルコース(ブドウ糖)分子がグリコシド結合によって重合し、枝分かれの非常に多い構造になった高分子である。動物における貯蔵多糖として知られ、動物デンプンとも呼ばれる。植物デンプンに含まれるアミロペクチンよりもはるかに分岐が多く8?12残基に一回の分岐となる(糖合成はDNAに支配されないため)。直鎖部分の長さは12?18残基、分岐の先がさらに分岐し、網目構造をとる。日本語で糖原とも。英語の発音からグライコジェンというひともいる。
化学物質過敏症
特定疾患
オーケストラ
バーベキュー
スキンケア
学童保育所
衛生
合気道
ホスピス
試写会
材料科学
システム工学
哺乳類
クリスマス
遺伝子疾患
食品添加物
ボクシング
履歴書
バレーボール
労働組合

グリコーゲンは肝臓と骨格筋で主に合成され、余剰のグルコースを一時的に貯蔵しておく意義がある。糖分の貯蔵手段としてはほかに、脂肪とアミノ酸という形によるものがある。 脂肪酸という形でしかエネルギーを取り出せない脂肪や、合成分解に窒素代謝の必要なアミノ酸と違い、グリコーゲンは直接ブドウ糖に分解できるという利点がある。 ただし、脂肪ほど多くのエネルギーを貯蔵する目的には向かず、食後などの一時的な血糖過剰に対応している。 グリコーゲンの合成・分解は甲状腺、膵臓、副腎がそれぞれ血糖に応じてチロキシン、グルカゴン及びインスリン、アドレナリンなどを分泌することで調整される。 なお、肝臓で合成されたグリコーゲンと骨格筋で合成されたそれとでは分子量が数倍異なり、前者のほうが大きい。

2009年05月30日

秀吉の嫡男・鶴松が死去した

天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。そのため、11月に秀吉の養子となり、12月には秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職を譲られた。

そして聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。その後、唐入りに専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。

しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、けっきょく文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した(これ以降、出家した関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた)。同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。

死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。
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秀吉により、新たに秀頼が後継者へ指名され、秀吉の死後、秀頼が家督を継いだ。

それまででも比叡山においての鹿狩りなどで悪評が強かった[要出典]秀次であったが、文禄元年(1593年)、秀吉に新たな子豊臣秀頼が生まれると関係が決定的に悪化した[1]。

文禄4年(1595年)に秀吉によって謀反の疑いをかけられることになる。同年7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成ら五奉行のうち4名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促された[2]。 同月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次のもとへ福島正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった[2]。秀次は雀部重政の介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧侶玄隆西堂も切腹した[2]。秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた[3]。 そして、同年8月2日(9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された[3]。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた[3]。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた[3](畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。

ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘のお菊は女児であり尚且つ生後一ヶ月の幼さであったためか助命され、お菊の祖父の弟の子の後藤興義に預けられた。また、のちの真田信繁の側室・隆精院、梅小路家に嫁いだ娘の二人も難を逃れた。他にも正室である池田恒興の娘・若御前も助命され、兄・輝政のもとに送り返されている。

この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺に残されている

2009年04月27日

それぞれの兵力

ドイツ
ドイツはポーランド軍に対し圧倒的な数的優位を維持し、強大な軍事力を準備していた。陸軍はI号戦車やII号戦車といった軽戦車を主力として、より攻撃力のあるIII号戦車やIV号戦車を含めて約2,400両もの戦車を保有し、6個の装甲師団を編制、新しい攻撃理論を構築していた。理論上では戦車部隊の集中運用によって、他の作戦部隊と共に敵の戦線のあちこちに突破口を穿ち、敵部隊を孤立させ、その上で歩兵部隊が孤立した敵部隊を各個撃破することとなっていた。作戦は適宜繰り返され、自動車化されていない歩兵部隊や各歩兵によって補完されることとなっていた。空軍は戦術的・戦略的な空からの軍事力を提供した。とくに急降下爆撃機は敵の補給線や通信線を遮断することになっていた。陸と空からの攻撃をあわせた立体作戦には電撃戦というニックネームがつけられた。しかし歴史家一般の見解では、ポーランド侵攻時におけるドイツ軍の作戦はまだ保守的であって、19世紀にクラウゼヴィッツによって提唱された伝統的な殲滅戦理論に即したものであった。

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航空機は侵攻作戦における主力であった。爆撃機は無差別爆撃により都市と一般市民を攻撃し、一般市民の間に多くの犠牲者を出した。ドイツ空軍は1,180機の戦闘機、290機のJu87シュトゥーカ急降下爆撃機、290機の爆撃機(主にハインケルHe111双発爆撃機)、240機の種々の水上機から編成されていた。当時のドイツは全部で3,000機近い航空機(そのうち2,000機は新鋭機)を保有しており、半数がポーランド戦線に投入された。ドイツ空軍は1939年時点における世界で最もよく訓練され、装備の充実した空軍であった。

1939年当時のドイツ海軍は第一次世界大戦開戦時の1914年8月当時よりも弱体だった。1939年の連合国はドイツよりも多くの大型の軍艦を保有していた。しかし第二次世界大戦中を通じて連合国の艦隊とドイツの艦隊が直接相見えることはなかった。あったのは、ドイツのポケット戦艦や仮装巡洋艦による個別的な通商破壊戦だけだった。1939年当時ポーランドの同盟国はバルト海でドイツ海軍と戦う意思もその用意もなかったので、ドイツ海軍はより小規模なポーランド艦隊に対しては有利であった。

2009年04月10日

リガチャー

リガチャーは、リードを唄口に固定するための器具である。古くは紐が使われており、リードを唄口に巻きつけて固定した。現在でもエーラー式のクラリネットを使用する場合に一般的に用いられている。

ベルト状の皮または合成皮にねじを付け、リードを唄口に締め付けて固定する皮製のリガチャーは、現在広く用いられている。安価なところでは皮の代わりに合成ゴムを使用したものもある。金属製のリガチャーも皮製と同じぐらい一般的に使用されている。形状は皮製と同様のベルト状のものや、リガチャーがリードや唄口に接触する部分を極力減らすように金属棒で作られた多角柱の骨組みのようなものもある。

リガチャーは、クラリネットの音源となるリードの振動を受け止めるものであるから、音色にも影響する。影響の大きさは、奏者だけに吹奏感や音色が違って感じられる軽微なものから、誰が聞いても明らかなほど音色が変わる大きなものまでさまざまである。奏者にしかわからない影響ならば無意味だと思えるかもしれないが、演奏は精神的な作業であるので、吹き心地のよさは奏者のイマジネーションを刺激してより表現豊かな演奏をもたらす重要な要素である。

おおよそ、皮などのやわらかい素材のリガチャーはリードの振動を吸収し、柔らかい音色になる。これは、リードの振動エネルギーをリガチャーに逃がしてしまうということでもあるため、金属製のリガチャーに比べ同じ音量を得るのにより強い息を吹き込むことになる。その反面、音の暴れは金属製に比べて少なく、固有の音色が乗りにくいことから、愛用者も多い。

金属製のリガチャーは、リードの振動を吸収しにくいため、より弱い息でも楽に音量を出せる。特に高次倍音(俗に音色の芯などと呼ばれる)が吸収されずによく響くので、よく通る音を楽に出せる。また、素材やメッキの音を意図的に載せることで、好みの音色を作り出すことも可能である。もちろん万能のリガチャーなどというものはなく、奏者の演奏スタイルに適切なものが選ばれる。リガチャーは奏者だけではなく、職人にとってもこだわりがあるようで、大手メーカーから街の楽器店まで製作を手がけ、実にさまざまなオリジナル・モデルが販売されている。

唄口、リード、リガチャーは密接な関係にあり、ひとつを変えても吹奏感や音色が大きく(ときには演奏不可能なほどに)変わることがあり、組み合わせとして捉えて慎重に選ばなければならない。もちろん楽器本体との相性も絡んでくる。

わっしょい ダード オフコ 検索村祭 コーヒー ビザウェー マンボン カイモ ハイス レザーク スパイ ナイジェ ループ ファンベト 私が主役 デイラ ストライカー キシング クアハ ワンシ ハイソ メタフ ツーロン ワイキキ デリカシー メモリ セッショ メタノール マイカ タチバナ ストレート リポート ジャンダ トメーシ オブシデ メダル サージ グリース シーモス ロビイング ドライブ ルレット シェンド ツイード スーサ クロス わっさむ レーキ ニーム トーチャー


2009年03月26日

ジェンダー・アイデンティティ

ジェンダー・アイデンティティは性的自己同一性であり、性自認とほぼ同じような意味であるが、性自認は、主体が自己をどのような性的存在と自己認知しているかである。それに対し、ジェンダー・アイデンティティは、ジェンダーとしての性別においての自己同一性であり、男性か女性かという二分にはならない。男性か女性かが性的自己同一性のノルムとするなら、より一般なジェンダーにおける性存在性のアイデンティティの可能性が存在する。

トランスセクシュアル(fr:Transsexualisme)
異性装・服装倒錯(fr:Travestissement)
インターセクシュアル・間性(fr:Intersexualité)
無性愛(fr:Asexualité)
両性具有性(fr:Hermaphrodisme)
主体における典型的な生物的性別は、男性と女性であり、それ以外に染色体異常を主因とする、様々な生物的には不全性のある間性が存在する。社会的・文化的な性別であるジェンダーも、男性と女性に大きく二分されるが、主体の心理的な自己認知においては、もっと多様な性自認が存在する可能性がある。「間性」、「中性」、「無性」、「両性」などの他に、「超性」なども想定される。
みかんいろ バリトン サーファ マスター ハンディー ニュルン すみのえ ロフルス タラップ ステン ハート フォロワー ダイヤ ディク ランド パーク カーブ シャト ラン トップ とうたい ジャン ルー メルク ニックス カレワ とうみょう ぶきいろい ディッシュ ラベル タオイズ ダイアモンド ショウ ベッド おじま ハイボー タイプライ 宇宙ステー ピンタック オートクチ ティンカー カラム モッコク ヤード きくらげ トータル ケトン ヒョウ メンバー チャンネル

性的指向の場合、主体と対象の性別における同性か異性か、両性か、またはいずれでもないという形に分類が行われるが、純粋に対象(性や性愛の相手)の性別を考えれば、生物的なレベルでも、性対象の性別について、男性、女性の区別が存在し得る。主体の性別に関係せず、性対象の性別に基づく、男性愛、女性愛の概念が想定可能である。更に、相手のジェンダーをも考慮に入れると、人間相互の性的関係・性的親交は、もっと複雑なパターンが存在することになる。

生物的アスペクトの問題 [編集]

性をめぐる問題 [編集]
女性:不妊症、膣痙攣、性欲減退
男性:勃起不全、早漏、無射精(射精障害) fr:Anéjaculation

産児制限 [編集]
出産を人為的に防ぐことを産児制限といい、家族を主体にした表現ないし婉曲表現として家族計画も用いられる。産児制限の生物学的な手段としては主に避妊と人工妊娠中絶があるが、中でも有効で安全な避妊法が普及することは、性と生殖とを分離するための必要条件でもある。そのため産児制限は単なる社会の人口調節という側面を超えて、女性が妊娠/出産の主体となる権利や「性の解放」の形で社会的な相をももつことになる。批判的な側面としては、宗教・倫理的見地から人工妊娠中絶やある種の避妊法が問題視されることもある。

産児制限
妊娠中絶
避妊
家族計画

性感染症 [編集]
性行為を通じて感染する疾病。英語では、Sexually transmitted disease で、略語として、STD または STI という。フランス語では、Maladie sexuellement transmissible で、略語は MST であるが、最近は IST である(「 I 」は、Infection の頭文字である)。

性感染症
後天性免疫不全症候群 通称エイズ(Aids)。フランス語の略称は「 Sida 」。
梅毒
淋病
肝炎
性器ヘルペス
クラミジア

2009年03月11日

サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城

サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城(Castillo de San Pedro de la Roca)は、サンティアーゴ・デ・クーバの沿岸部にある城塞である。市の中心部からは約 10 km に位置し、湾を見渡している。

サン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城は、ミラノの軍事技師の家に生まれたジョヴァン・バッティスタ・アントネッリ(Giovan Battista Antonelli, フアン・バッティスタ・アントネジ)によって、1637年に設計された。都市には、1590年から1610年に建造されていたより小さな要塞が存在していたが、都市の総督であったペドロ・デ・ラ・ロカ・イ・ボルハ(Pedro de la Roca y Borja)は、襲い来る海賊への防衛施設として新たに依頼したのである。

アントネッリの設計は、湾の中で伸びる岬の切り立った崖の上に城塞を建てるという条件に順応したもので、ひと続きの段丘の上に建てられた。城塞は主に4層構造で、大砲を備えた3つの城壁に守られていた。 必需品は海路で運び込まれ、岩を直接切り出した大きな倉庫に収蔵されるか、シタデルがあった最上層に搬入された。

シタデルの建設は1638年から始めて42年を要したが、最終的な工事は断続的に続けられて1700年に完成した。アントネッリはシタデルの大規模な建設工事が開始されてから間もなくにあたる1645年に呼び戻されたが、彼の他の作品は2つの城塞(Fuerte del Cojimar, Fuerte de Santa Doratea de Luna de Chorrera)でも見ることが出来る。より早期の要塞の構造物の中には、後の主要建築物に取り込まれたものもある。

海賊の襲撃の恐怖は十分に根拠のあることだった。1662年には城塞はまだ建設中だったが、イギリスの海賊が襲来し、2週間にわたりサンティアゴ・デ・クーバを制圧した。その時には城塞も壊され、大砲も奪われた。彼らが去ったあと、スペイン政府は損壊箇所の再建と駐屯する兵の数を300人に引き上げた。1663年から1669年には、技師であったフアン・シスカラ・イバニェス(Juan Císcara Ibáñez)、フアン・シスカラ・ラミレス(Juan Císcara Ramirez)、フランシスコ・ペレス(Francisco Perez)が損壊箇所の修復を行い、さらに側面の補強や砲台の新設といった城塞の改良も行った。この甲斐もあってか、1678年にはフランスの小艦隊の攻撃を凌ぎ、1680年にはアンティル諸島のフィリバスターの副指揮官フランケスマ(Franquesma)に率いられた800人の攻撃も撃退した。
シントニア タコス オイル マヤ吉 ケルン ミーハー ボタン たこいと デュアル アルル ライン アクサ ビー玉 ロコモコ ライフ テナー クチル トッププ ナズナ ロベニア シタニア キング ブルー レンド ハファダ シリア マリンホス タイトス リテール シラー カノープス きねづか ブダペ スノーグ チョウゲ フルタイ モミジ デブリ ブラッシ 深海魚 シルバー ビーテ トライ サイキック ブレッツ プルーフ すいか くもり ダッジ ミーア

しかし、1675年から1692年の間に相次いだ地震によって、城塞は被害を受けており、1693年から1695年にかけてフランシスコ・ペレスの指揮下で修復工事が行われた。1738年から1740年には技師アントニオ・デ・アレドンド(Antonio de Arredondo)の指揮下で更なる工事が行われ、シタデルの拡大や未完に終わっていた砲台の完成などが達成された。この工事にはフアン・マルティン・セルメニョ(Juan Martín Cermeño)とフランシスコ・カルデリン(Francisco Calderín)も携わった。カルデリンらは1757年から1766年の地震で再び損壊した後に、建造物群の最終的な変更を手がけている。

1775年ころまでには攻撃される虞は減退したため、要塞は軍事拠点として利用され続けつつも、ロカ(la Roca,「岩」)とエストレリャ(la Estrella,「星」)と呼ばれていた2区画は政治犯収容用の監獄に転用された。しかし、米西戦争の中でサンティアゴ・デ・クーバもアメリカ合衆国艦隊の攻撃を受けると、再び全体が城塞として使われた。

2009年02月23日

セブアノ語

セブアノ語は俗に「セブ語」や「ヴィサヤ(ビサヤ)語」とも呼ばれ、オーストロネシア語族の言語である。フィリピンのセブ州、ボホール州、ネグロス・オリエンタル州、レイテ州西部、さらにミンダナオ島西南部などで広く話されており、他にもごくわずかにサマール島に話者が存在する。これらの地域ではタガログ語(フィリピン語)よりもセブアノ語を母語とする人が多い。「セブアノ」とは地名のセブにスペイン語の-anoをつけたものである。V-S-O型である。

子音16個、母音3個がある。
ジョブコー ダーポポ プライ オール ハンドグ フェア はずたか タフガ シミュレ 冬の花 ポテト トゥー ハンカ ハシェマ やまふじ インレット ゆずの里 カガシ マンシェ ナサラ ヌクレ 検索モミ カラカス スピー オリジナ 水菜 ビジョン ズーム マウンテ ドレス トカマク ムギセ ベニバ グラソース キング コード オパール オーセン クール ランボ たてじょう ブラゾーン おおみ リンス バロキ スノー ドウェー プレス プロペ いぬまき

子音
p,t,k,b,d,g,m,n,ng[ŋ],s,h,w,r,l,y[j],(※字には書かれないが声門閉鎖音もある)

母音
a,i,u(※uは語末で口を広くして発音されるのでoと書かれる)


[編集] 数
※"´"はアクセントの位置を表す

1 usá
2 duhá
3 tulú
4 upát
5 limá
6 unúm
7 pitú
8 walú
9 siyám
10 napúlu
11 napúlu'g usá (10と1の意味のnapúlu ug usá の縮まった形)
12 napúlu'g duhá
20 kawha-an
21 kawha-a'g usá
...

30 katlo-an
31 katlo-a'g usá
...

40 kap-atan/kap'atan
41 kap-ata'g usá/kap'ata'g usá
...

50 kalimaan/kalim'an
51 kalimaa'g usá/kalim'a'g usá
...

60 kaunuman/kan'uman
61 kaunuma'g usá/kan'uma'g usá
...

70 kapitu-an
71 kapitu-a'g usá
...

80 kawalo-an
81 kawalo-a'g usá
...

90 kasiyaman
91 kasiyama'g usá
...

100 usá ka gatos
101 usá ka gatos ug usá
...

1,000 usá ka libo
1,000,000 usa ka libo ka libo/ usa ka milyon

2009年02月06日

邪馬台国(やまたいこく)は、『魏志倭人伝』などに出てくる国

「やまとこく」、「やまだいこく」などとも呼ばれる。また、耶馬台国とも記述される。
バゲット クス ポイント ヌガー ソリッド 一石二鳥 ミックス ランウエー アヨーチン ブルペン ステーク ドンファン フィル 検索クワ ギガス おじまじ タンポン カレンシー ぼうふう トリグ シャーマン シシャパ キトサン タウリン フィー リーキ シシカバブ バーガー モダンアート セントラ ヒンドゥー フレッ サイゴン 王様検索 フルネュ ナロー ひみつり オーバ カーフェリ サーベイ レジェンド サー油 マイタ かぶらや デミタ ラジエ スター ダンサー テンキー イニング

弥生時代の2?3世紀に日本にあったと推定されている。女王が治めていたことから魏志倭人伝では女王国とも記されている。

邪馬台国は元々男王が治めていたが、国家成立から70?80年後、倭国全体で長期間にわたる騒乱が起きた(倭国大乱)。邪馬台国もその影響を逃れえず、卑弥呼という女子を王に共立することによって、ようやく混乱が収まった。弟が彼女を補佐し国を治めていた。女王は魏に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。248年頃、狗奴国との戦いの最中に卑弥呼が死去し、男王が後継に立てられたが混乱を抑えることができず、「壹與」(壱与)または「臺與」(台与)が女王になることで収まったという。

邪馬台国と後のヤマト王権の関係ははっきりしない。位置についても魏志倭人伝の記述が明確でなく、論争になっている。一般的な読みは「やまたいこく」だが、本来の読みについては諸説がある。

「魏志倭人伝」中の邪馬台国
以下は「魏書」東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に記述された邪馬台国の概要である。諸説あり、必ずしも当時の日本の状況を正確に伝えているとは限らない。

邪馬台国までの道程
魏志倭人伝には、魏の領土で朝鮮半島北部に当時あった郡[1]から邪馬台国に至る道程が記されている。

倭国に至るには、帯方郡が出発点だとすれば、船で韓国を経て7,000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。そこから海を1,000余里渡り、対馬国に着く。瀚海と呼ばれる海を南に1,000余里渡ると一大国(一支国)に至る。また海を1,000余里渡ると末盧国に至る。東南へ500里陸行すると伊都国に到着する。東南へ100里進むと奴国に至る。東へ100里行くと不弥国に至る。南へ水行20日で投馬国に至る。南に水行10日陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。帯方郡から女王国までは1万2,000余里ある。

漢書で一般的な1里=約400メートルを用い、方角も正確だとの前提に立って直線距離で考えると、上陸地点から陸行500里の伊都国は、九州北岸から200km東南の宮崎県=日向としか読めない。(江戸時代以前の国学者は、そう考え、後の耶馬台国までの記事は誤記と考えた) そこから単純に100里+100里=200里が不弥国(大隅半島付近?)と考えると、さらに10日南に水行する邪馬台国なるものは日本列島を飛び越えて太平洋上になってしまう。このため、位置や道程の比定をめぐり論争が起きてきた(#邪馬台国に関する論争を参照)。位置については畿内説と九州説が有力とされる(#位置に関する論争を参照)。道程についても「連続説」と「放射説」がある(#道程に関する論争を参照)。

邪馬台国の政治
邪馬台国には元々は男王が置かれていたが、国家成立から70?80年を経たころ、漢の霊帝の光和年間に政情不安が起き、歴年におよぶ戦乱の後、女子を共立し王とした。その女王が卑弥呼である。この戦乱は、中国の史書に書かれたいわゆる「倭国大乱」と考えられている。

女王は鬼道[2]によって人心を掌握し、既に高齢で夫は持たず、弟が国の支配を補佐した。卑弥呼は1,000人の侍女に囲われ宮室や楼観で起居し、巡らされた城や柵、多数の兵士に守られていた。王位に就いて以来、人と会うことはなく、一人の男子[3]が飲食の世話や取次ぎをしていた。

卑弥呼に関する「魏志倭人伝」のこの記述から、卑弥呼は呪術を司る巫女(シャーマン)のような人物であり、邪馬台国は原始的な呪術国家とする見方がある。一方で、弟が政治を補佐したという記述から、巫女の卑弥呼が神事を司り、実際の統治は男子が行う二元政治とする見方もある[4]。女王を戴いてたことから邪馬台国を女系国家と論じる者もいるが、卑弥呼以前は男王が立ち、卑弥呼の死後もまず男王が立っていることから、これは疑わしい。

邪馬台国の人口は7万余戸。長官は伊支馬で、次に弥馬升、その次に弥馬獲支、次に奴佳碑。

対馬国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国、投馬国に関しては、「魏志倭人伝」に詳しい記述がある。その他、斯馬国、百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、 好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、 呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、爲吾国、鬼奴国、 邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国[5]があり、邪馬台国はこれら20数カ国を支配していた。日本列島の全てを支配した訳はなく領域外の国々もあり、特に男王卑弥弓呼が治める南の狗奴国とは不和で戦争状態にあった。

邪馬台国の北方の諸国には一大率(一支率)という官が置かれ、諸国を監視していた。一大率の役所は伊都国にあり、魏の刺史[6]のような役目を果たしていた。伊都国は外交の中心地で、魏や韓の国々の使節や通訳は、ここに停泊して文書や贈物の点検を受け女王に送っていた。

租税や賦役の徴収が行われ、国々にはこれらを収める倉がつくられていた。また、市場が各地に開かれ、大倭という官がこれを監督していた。

女王は景初2年(239年)以降、帯方郡を通じ数度にわたって魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。正始8年(248年)には、狗奴国との紛争に際し、帯方郡から塞曹掾史張政が派遣されている。魏志倭人伝の記述によれば、朝鮮半島の国々とも使者を交換していたらしい。

卑弥呼が死去すると大きな墳墓がつくられ、100人が殉葬された。その後、男王が立てられたが、人々はこれに服さず内乱となり1,000人が死んだ。そのため、卑弥呼の親族で13歳の少女だった壹与(台与)が王に立てられた。先に倭国に派遣された張政は檄文をもって壱与を諭しており、壹与もまた魏に使者を送っている。

魏・晋との外交
「魏志倭人伝」には、帯方郡を通じた邪馬台国と魏との交渉が記録されている。

景初2年(238年)[7]、6月女王は大夫の難升米と次使の都市牛利を帯方郡に派遣し、天子に拝謁を願い出た。帯方太守の劉夏は彼らを都に送り、使者は男の生口(奴隷)4人と女の生口6人、班布2匹2丈を献じた。悦んだ皇帝は女王を親魏倭王とし、金印紫綬を授けるとともに銅鏡100枚を含む莫大な下賜品を与えた。また、難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉とした。
正始元年(240年)、帯方太守弓遵は建中校尉梯儁らに詔書と印綬を持たせて倭国へ派遣し、倭王の位を仮授するとともに下賜品を与えた。
正始4年(244年)、女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送り、生口と布を献上。皇帝(斉王)は掖邪狗らを率善中郎将とした。
正始6年(246年)、皇帝(斉王)は帯方郡を通じ難升米に黄幢(黄色い旗さし)を下賜した。
正始8年(248年)、女王は太守王頎に載斯烏越を使者として派遣して、狗奴国との戦いについて報告。太守は塞曹掾史張政らを倭国に派遣した。
女王に就いた壹与は、帰任する張政に掖邪狗ら20人を同行させ、掖邪狗らはそのまま都に向かい男女の生口30人と白珠5,000孔、青大句珠2枚、異文の雑錦20匹を貢いだ。
また、『日本書紀』の「神功紀」に引用される『晋書』起居註に、泰始2年(266年)に倭の女王の使者が朝貢したとの記述がある。魏志の魏書三少帝紀によれば、同じ年に東夷が朝貢して禅譲革命の準備がなされたという記事があるので、この女王は壹与で、魏に代って成立した晋の皇帝(武帝)に朝貢したと考えられている。

風俗
魏志倭人伝に当時の倭人の風俗も記述されている。

男子はみな顔や体に入墨を施している。人々は朱や丹を体に塗っている。
男子は冠をつけず、髪を結って髷をつくっている。女子はざんばら髪。
着物は幅広い布を結び合わせているだけである。
兵器は矛、盾、木弓を用いる。
土地は温暖で、冬夏も生野菜を食べている。
人が死ぬと10日あまり哭泣して、もがり(喪)につき肉を食さない。他の人々は飲酒して歌舞する。埋葬が終わると水に入って体を清める。
倭の者が船で海を渡る際、持衰が選ばれる。持衰は人と接さず、虱を取らず、服は汚れ放題、肉は食べずに船の帰りを待つ。船が無事に帰ってくれば褒美が与えられる。船に災難があれば殺される。
特別なことをする時は骨を焼き、割れ目を見て吉凶を占う。
長命で、百歳や九十、八十歳の者もいる。
女は慎み深く嫉妬しない。
盗みはなく、訴訟も少ない。
法を犯した場合、軽い者は妻子を没収し、重い者は一族を根絶やしにする。
宗族には尊卑の序列があり、上のもののいいつけはよく守られる。

邪馬台国のその後
3世紀半ばの壱与の朝貢を最後に、義熙9年(413年)の倭王讃による朝貢(倭の五王)まで150年近く、中国の史書から倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれた。邪馬台国と後のヤマト王権との関係は諸説ありはっきりしない。

邪馬台国に関する論争
邪馬台国があったとされる根拠は、「魏志倭人伝」に残されている(参照→Wikisource)ほか、これ以外の中国の史書にも記載がある。ただ、史料によって漢字の表記方法にぶれがある上、その書物が記された時代の音読として「やまたいこく」が正確かどうかも統一的な理解はない。また、日本国の正史である「古事記」や「日本書紀」に、邪馬台国や卑弥呼の実像を明確にするには記述が不十分である[8]ことなどから、その場所や大和朝廷との関係について長期的な論争が続いている。

この論争が始まったのは、江戸時代後期、新井白石が「古史通或問」において大和国説を説き、「外国之事調書」では筑後国山門郡説を説いた。その後、国学者の本居宣長は「日本の皇室が中国に朝貢するなどありえない」という立場から、「馭戎概言」において大和国とは別の筑紫(九州)にあった小国であり、卑弥呼は神功皇后の名を騙った熊襲の女酋長であると説いた。これ以来、学界はもちろん在野研究者を巻き込んだ論争が現在も続いている。ここでは、邪馬台国をめぐる様々な論争を紹介する。

邪馬台国の音
「邪馬台国」は「やまたいこく」と読まれるのが現在では一般的である。この「邪馬台」を「やまたい」と読んだのは国学者の本居宣長が最初であると考えられている。新井白石が記した「古史通或問」や「外国之事調書」では、その場所を大和国や山門郡と説いていることから、白石は「やまと」と読んでいたことがわかる。しかし本居宣長は国学の立場から大和朝廷との同一性を否定し、あえて「やまたい」と読んだ。この「やまたいこく」という読みであるが、これは二種の異なった体系の漢音と呉音を混用している。例えば呉音ではヤマダイ又はヤメダイ、漢音ではヤバタイとなることから、必ずしも正確な読み方ではない。ましてや古代中国の『三国志(魏志倭人伝)』が記された時代に、どう読まれていたかも正確なところは不明である。

『三国志(魏志倭人伝)』の版本[9]では「邪馬壹國」または「邪馬一國」(日本語読みはともに「やまいちこく」)と書かれている。『三国志』より後の5世紀に書かれた『後漢書』倭伝では「邪馬臺国」[10]、7世紀の『梁書』倭伝では「祁馬臺国」、7世紀の『隋書』では「魏志にいう邪馬臺(都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也)」となっている[11]。表記のぶれをめぐっては、「壹」を「臺」の誤記とする説のほか、「壹與遣,倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送,政等還。因詣臺,」から混同を避けるために書き分けたとする説、魏の皇帝の居所を指す「臺」の文字を東の蛮人の国名には用いなかったとする説[12]などがある。

「邪馬壹國」と「邪馬臺国」のいずれも、発音の近さから「やまと」の宛字ではないかとする説がある[13]。しかし、「邪馬壹國」は「やまいこく」であり、「やまと」とは別の国であるとする説も在野に根強く残っている。また、古い日本語では同一語根内に母音が連続しないことから、やまい(ya・ma・i)は不自然とする意見もある。

位置に関する論争
邪馬台国の比定地については、「魏志倭人伝」に書かれている方角表記や距離表記をその通りにたどると、日本列島のはるか南方の海中になるため、様々な解釈がなされてきた。古くは『日本書紀』の編者により邪馬台国と大和朝廷、卑弥呼と神功皇后は同一であるとされ、南北朝時代の北畠親房らも同様の主張をしてきた。江戸時代には、新井白石や本居宣長らが比定地や行程などに関する独自の説を発表した。明治時代に入って論争が始まり、多数の説が提唱されてきた。これらは「邪馬台国論争」などとも呼ばれている。もともとは学者間の論争であったが、1967年に発表された宮崎康平の『まぼろしの邪馬台国』(講談社)という書籍によって邪馬台国論争は「邪馬台国ブーム」となり、日本人一般にまで波及した。

二大仮説
邪馬台国の所在地については日本国内どころか世界各地までにもその地を求める論者がいるが、学界の主流は「畿内説」と「九州説」の二説に大きく分かれている。九州説の一つに、邪馬台国が移動したとする「東遷説」もある。邪馬台国所在地論争は、この二大説の対立が中心となっている。

かつて、畿内説は「魏志倭人伝」の方角表記が誤っていると考える研究者(「連続説」、主に京都大学系)に多く見られ、九州説は距離表記が誤っていると考える研究者(「誤記説」、主に東京大学系、白鳥庫吉及び内藤湖南を参照)あるいは榎一雄に代表される「放射説」を取る研究者に多く見られた。また、最近の畿内説は、水掛け論に陥りやすい「魏志倭人伝」の解釈より考古学による知見のほうが確実と見なす傾向があり、考古学者の支持が強い。

畿内説で用いられる「連続説」(連続読み)とは、魏志倭人伝に記述されている方角や距離に従って比定していく読み方で、帯方郡を出発後、狗邪韓国・対馬国・一支国を経て北部九州に上陸し、末廬国・伊都国・奴国・不弥国・投馬国・邪馬台国までを順にたどる。一方、九州説で用いられる「放射説」(放射読み)は、伊都国までは連続読みと同じだが、その先は伊都国から奴国、伊都国から不弥国、伊都国から投馬国、伊都国から邪馬台国というふうに、伊都国を起点にする読み方である。

なお、宮崎康平は、道程に関して「古代の海岸線は現代とは異なることを想起しなければならない」と指摘し、現在の海岸線で議論を行っていた当時の学会に一石を投じた。しかし、古代の海岸線を元に考察しても、有利となる場所の相互間のみで変化があるだけで連続説あるいは放射説の根本部分に大きな影響を与えるほどの学説ではないことから現在ではこの点に関しては問題とはされていない。

また、近年の考古学的成果、特に年輪年代学による新しい年代観により、大和地方での初期国家の成立が邪馬台国と同時代の2世紀頃までさかのぼるとの説が有力になっている。これを踏まえ、現在ではプレ大和王権と邪馬台国と直接結びつくのか(あるいは初期の大和王権と邪馬台国が同一のものなのか)が論争の焦点となっている。他方、新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成されているために、独立した検証が不十分なためである。

畿内説に立てば、3世紀の日本に少なくとも大和から大陸に至る交通路を確保できた勢力が存在したことになり、大和を中心とした西日本全域に大きな影響力を持つ勢力、即ち大和王権がこの時期既に成立していたとの見方ができる。

一方の九州説の立場を取ると、邪馬台国は九州の地方王権に過ぎないことになり、3世紀に大和王権が存在していたかどうか疑わしくなる。邪馬台国の位置を巡る論争は、日本国家の成立を解き明かす上でも重要な位置を占めている。

畿内説
畿内説には、琵琶湖湖畔、難波などの説があるが、その中でも、奈良県桜井市三輪山近くの纏向遺跡(まきむくいせき)を邪馬台国の都に比定する説が、下記の理由により有力とされる。

年輪年代学の成果により、画文帯神獣鏡などの記年鏡の年代も一致したことから、邪馬台国の時代にすでに遺跡の築造が始まっていたとみられ、最盛期が弥生時代終末期?古墳時代であり、邪馬台国の時代と合致すること。
吉備、阿讃(東四国)の勢力の技術によると見られる初期の前方後円墳が大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっていること[14]。
北九州から南関東にいたる全国各地の土器が出土し、纏向が当時の日本列島の大部分を統括する交流センター的な役割を果たしたことがうかがえること。
卑弥呼の遣使にちなんだと見られる景初三年、正始元年銘のものを含む三角縁神獣鏡が、畿内を中心に分布し、かつこれらがかつては4世紀以降の古墳にのみ見られ時代が合わないとされていたのが、年輪年代学等の結果により、3世紀に繰り上げられ、時代が合致すること[15]。
弥生時代から古墳時代にかけておよそ4,000枚の鏡が出土するが、そのうち紀年鏡13枚のうち12枚は235年?244年の間に収まって銘されており、かつ畿内を中心に分布していること。この時期の畿内勢力が中国の年号と接しうる時代であったことを物語る。
『日本書紀』神功紀では、魏志と『後漢書』の倭国の女王を直接神功皇后に結び付けており、中国の史書においても、『晋書』帝紀では邪馬台国を「東倭」と表現し、正しい地理観に基づいている『隋書』では、都する場所ヤマトを「魏志に謂うところの邪馬臺なるものなり」と何の疑問もなく同一視していること。現行の「魏志」がすべて宋時代の刊本を元としているのに対し、それ以前の写本の中には、南を東と正しく記載したものがあった可能性もある[16]。

逆に、畿内説の弱点として上げられるのは次の点である。

倭国の産物とされるもののうち、鉄や絹は主に北九州から出土する[17]。
「魏志倭人伝」に記述された民俗・風俗がかなり南方系の印象を与え、南九州を根拠とする隼人と共通する面が指摘されていること[18]。
「魏志倭人伝」を読む限り、邪馬台国は伊都国や奴国といった北九州の国より南にあったように読めること[19]。
かつて、畿内説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

三角縁神獣鏡を卑弥呼が魏皇帝から賜った100枚の鏡であるとする説。しかし、既に見つかったものだけでも400枚以上になること、中国社会科学院考古学研究所長である王仲殊が「全て漢鏡ではない」と発表していることなどから、九州説の側から「全て偽作である」という反論を受けている。[20]。
邪馬台国長官の伊支馬(いきま?)と垂仁天皇の名「いくめ」の近似性を指摘する説もあるが、大和朝廷の史書である記紀には、卑弥呼の遣使のこと等具体的に書かれていない。田道間守の常世への旅の伝説を、遣使にあてる説もある。

九州説
九州説は畿内説における纏向遺跡のような有力な具体的候補地はまだなく、福岡県の大宰府天満宮、大分県の宇佐神宮、宮崎県の西都原古墳群など、九州各地に、それぞれ近辺を都とする諸説が乱立している。

帯方郡から女王國までの12,000里のうち、福岡県内に比定される伊都国までで既に10,500里使っていることから、残り1,500里[21]では邪馬台国の位置は九州地方を出ないとされること[22]。
邪馬台国と対立した狗奴国を熊本(球磨)の勢力と比定すれば、狗奴国の官「狗古知卑狗」が「菊池彦」の音訳と考えられること[23]。
魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を甕棺と見なす見解に基づき、北九州地方に甕棺が多数出土していること[24]。
その後の邪馬台国については、畿内勢力に征服されたという説と、逆に東遷して畿内を制圧したとの両説がある[25]。
一部の九州説では、倭の五王の遣使なども九州勢力が独自に行ったもので、畿内王権のあずかり知らないことであるとするものがある[26]。
逆に、九州説の弱点として上げられるのは次の点である。

奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは考えにくいこと[27]。
中国地方や近畿地方に、九州をはるかに上回る規模の古墳や集落が存在していること。
古墳築造の開始時期を、4世紀以降とする旧説に拠っているが、年輪年代学、放射性炭素年代測定などの結果がでるにつれ、ほとんどの考古学者の支持を得られなくなっていること。
魏から女王たちに贈られた品々や位が、西の大月氏国に匹敵する最恵国への待遇であり、小領主へ贈られたものとは考えにくいこと[28]。
3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したのものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。
現在の知見からは邪馬台国時代にすでに古墳築造が始まっていると見るべきであり、偽作と考えるべき前提が成り立たない。
紀年鏡には三角縁神獣鏡以外のものも含まれる。
魏の年号である「青龍3年」、呉の年号である「赤烏元年」「赤烏7年」などの紀年鏡も見つかっており、単に邪馬台国にちなんだ偽作というのでは説明がつかないなどの疑問があり、学界では受け入れるところとなっていない。
また三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された280年以降のものとする説もあるが、様式論からはかならずしも呉の作であるといいきれるものでない。少なくとも銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない[29]。これらを280年以降の製造と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集中しているのか、整合的な理解が難しい。これらにより、いまだ学界の大多数を説得できていない。
また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、北九州の優位性は伺えない。一般的に弥生時代の遺跡では、2世紀にはいると北九州の優位性は失われるため、多くの考古学者が九州説に与し得ない理由の一つとなっている。
旅程記事について、通常の連続読みでは九州内に収まりきらないので、放射線式の読み方に従うにしても、次のような難点がある。
放射線式読み方が正当化されるには、「到」「至」の使い分けがされているときは、そのように読むべきであるという当時の中国語の決まりがなければならないが、魏志倭人伝の内容をほぼ引き写している梁書では、そのような使い分けはされておらず、使い分けに特別な意味があったとは思えない。
仮に放射線式の読み方を受け入れると、邪馬台国は伊都国の南水行十日陸行一月の行程にあるが、これを九州を大回りして水行し南下する意味に捉えたとしても、邪馬台国の位置は中南部九州内陸に求めることとなり、後の熊襲の地に邪馬台国があることになる。そしてさらにその南に狗奴国が存在することになる。したがって比較的支持者の多い北九州内には到底収めることはできない。
かつて、九州説の根拠とされていたが、今は重要視されていないものは以下のものである。

近畿地方から東海地方にかけて広まっていた、銅鐸による祭祀を行っていた銅鐸文明を、「魏志倭人伝」に記載された道具であり、『日本書紀』にも著される矛(剣)、鏡、勾玉の、いわゆる三種の神器を祭祀に用いる「銅矛文明」が滅ぼしたとされる説。
しかし、発掘される遺跡の増加に伴い、「銅鐸文化圏」の地域で銅矛や銅剣が、吉野ヶ里遺跡のような「銅矛文化圏」内で銅鐸や銅鐸の鋳型が出土するといったことが増えたことから、今では否定的に見られている。
また、「倭人伝」の記載は、祭祀について触れられたものではないこと、6世紀以前は3種ではなく、多種多様な祭器が土地それぞれで使用されていたことも九州説では重要視されない理由として挙げられる。

それ以外の説
上記の二大説に加えて、吉備、出雲、四国、尾張、千葉県、甲信越、岩手県など、日本各地を邪馬台国の候補地とする説がある。畿内と九州の二ケ所に都があったとする説もある。他に琉球説、ジャワ説などもある。

それぞれの説の比定地は、「邪馬台国比定地一覧」にまとめられている。

一方、『魏志』の記述を元に候補地を探す諸説に対し、そもそも記述に作為があるため、それをもとに邪馬台国の位置を探るのはナンセンスである」という指摘もある[30]。

^ 景初2年(238年)の8月23日に公孫淵が殺されて以降に魏が占拠した帯方郡とは限らず、当時楽浪郡の支部になっていた玄兎郡故府の可能性もある。
^ 卑弥呼の「鬼道」については幾つかの解釈がある。卑弥呼はシャーマンであり、男子の政治を卑弥呼が霊媒者として助ける形態とする説(井上光貞『日本の歴史』〈1〉 中公文庫 2005年等)。『魏志』張魯伝、『蜀志』劉焉伝に五斗米道の張魯と「鬼道」についての記述があり、卑弥呼の鬼道も道教と関係があるとする説(重松明久『邪馬台国の研究』 白陵社 1969年等)。左記の説について慎重さを求める意見もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』下 吉川弘文館 2000年)。卑弥呼の鬼道は後漢時代の初期道教と関係があるとする説(黒岩重吾『鬼道の女王 卑弥呼』 文藝春秋 1999年等)。道教説を否定し、鬼道は道教ではなく「邪術」であるとする説(謝銘仁『邪馬台国 中国人はこう読む』 徳間書店 1990年)。「鬼道」についてシャーマニズム的な呪術という解釈以外に、当時の中国の文献では儒教にそぐわない体制を「鬼道」と表現している用法があることから、呪術ではなく、単に儒教的価値観にそぐわない政治体制であることを意味するという解釈がある。
^ 弟とする説がある。
^ 後の推古天皇と聖徳太子との関係が例として挙げられる。
^ 先に詳細が記されている奴国と同一とする説がある。
^ 大きな行政単位の州の巡察長官。
^ この年は遼東の公孫淵の滅亡の直前であり、戦乱の最中に遣使は困難であるとして、『梁書』・『日本書紀』が引用する「魏志倭人伝」の記述に従い、翌年の景初3年の誤りであろうとすのが通説である。ただし、卑弥呼の遣使2人で朝貢物が奴婢10人布2匹2丈とかつての奴国の貢物奴婢160人と比べても粗末なものであったのに、魏が邪馬台国を厚遇しているのは、公孫氏政権からいち早く魏に乗り換えた事の功績が認められたからという観点から、公孫氏政権滅亡直前の景初2年の遣使が正確であるという説(古田武彦『『邪馬台国』はなかった』 角川文庫 1977年)もある。
^ 日本書紀の卷第九の神功皇后の記述に、魏志倭人伝の引用があり、神功皇后と卑弥呼を同一人物と見なした記述がある。神功皇后と卑弥呼を同一人物とする説は那珂道世によって否定された。また、市村其三郎は『卑弥呼は神功皇后である』(新人物往来社、1972年)を著している。
^ 現存する版本は全て宋 (王朝)以後のものである。
^ 日本語読み「やまたいこく」。
^ 日本の漢字制限後の当用漢字、常用漢字、教育漢字では「壹」は壱か一、「臺」は台と書く。
^ 『三国志』には「臺獄」や、死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これを否定する説もある。
^ 古代中国語音の研究が進んだことにより、邪馬臺は「jamatö」に近い発音となると考えられている。
^ 卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳は、その代表例。
^ 九州説では後世の偽作と見ている。
^ 九州説では、書紀の編纂に当たった当時の大和朝廷が、参照した中国の史書(魏書、後漢書など)にある古代国家の記述を書紀に組み入れたにすぎないとする。
^ しかし、邪馬台国が北九州をすでに勢力下においていたとすれば、絹や鉄の記述があるのは不思議ではない。
^ 当時の畿内住民が南方系の習俗を持っていたかどうかは不明。
^ これに対して、北九州の国々の行程を表記するにあたっても、すでに60度ほど南にずれているからもともと正確ではない、あるいは、倭国が会稽東冶の東海上に南に伸びて存在するという誤った地理観に影響されたものである、混一疆理歴代国都之図[1]」の影響下にある地図には、日本を右回りに傾かせて描かれたものがある(「日本地図」の項目も参照のこと)などの意見がある。また方角の正しい地図は、現代において九州説が創作された時代以降のものしか確認されていないため、その方角の正しい地図の創作自体が、九州説創作の切っ掛けとなったという説もなされている。ただし混一疆理歴代国都之図については、15世紀に原図を作った朝鮮人が「行基図」を誤って右回りにはめ込んだにすぎず、古くからの地理観とはいえないと主張する説や、他に15世紀以前に日本を右回りに回転させたと証明できる地図が存在するわけでもなく、『隋書』では正しい地理観に基づいて行程を記述しているので、根拠とはしがたいという反論がある。
^ ただし九州説の側も「全てが偽作」であることの論証を明確にしているとは言い難く、オリジナルのものが伝来した可能性自体を排除できてはいない。逆に畿内説の側は、多くの鏡の年号が235年から244年の範囲内に納まるにも関わらず、邪馬台国とは無関係であるとするのは逆に無理があると再反論している。
^ 佐賀県唐津市に比定される末盧國から伊都國まで500里の距離の3倍。
^ 三宅米吉は、12,000里は里程のわかっている不弥国までの距離であるとし、山田孝雄は、これは一部不明のところのある現実の距離をあわせたものではなく、単に狗邪韓国までの7,000里と倭地の周旋5,000里を合算したものに過ぎないとする。九州王朝説を唱えた古田武彦は、「正確を期するため同じ行程を距離と掛かる日数とで二重に標記している」とする読み方を提唱している。
^ 畿内説では狗奴国を毛野または桑名や加納などの東海地方の勢力と考えるにしても、官名に対し特別な解釈を与えないようである。畿内説の内藤湖南は、かれが邪馬台国の時代に近いと考える景行天皇の時代に、朝廷と熊襲が激しく衝突したことから、狗奴国を熊襲、「狗古知卑狗」を菊池彦に当てている。そうすると、ここでは方角が正しいことになるが、彼は、狗奴国に関する記述は旅程記事とは別系統に属するから、問題はないという。『魏略』には「拘右智卑狗」とあるが、古代の日本語は語中に母音が来ることはないから、これは誤字と見てよい。吉備説・出雲説・東四国説では狗奴国を河内の勢力と見ている。
^ 当時の北九州以外における一般的な埋葬方法はまだ良く分かっていない。
^ 後者の東遷説は神武東征をその事実の反映と見る立場が多いが、『隋書』の記述がすでに現存する記紀神話とは相当異なっている可能性があるとして、神話を根拠とすることは受け入れがたいとする意見もある。
^ 江戸時代後期の国学者による「偽僣説」(九州勢力が朝廷を僭称したとする説。本居宣長『馭戎概言』、鶴峯戊申『襲国偽僣考』、近藤芳樹『征韓起源』など。)。現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降、衰亡したとする説。学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。)。
^ もちろんこれをそのまま信じていいのかには疑問もある。
^ 九州説では呉に圧力をかけるための厚遇であったとする。また前述の古田武彦は、公孫氏政権からいちはやく魏に乗り換えた功績に対する厚遇であるとする。
^ 一般的には概ね魏の領域と考えられている。
^ 邪馬台国までの12,000里という距離は、同じく魏が金印を贈った国として知られる大月氏のそれと等しいことから、邪馬台国を大月氏に匹敵する国である位置づける意図があったとする(岡田英弘の説)。

2009年01月22日

慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言

現在の所、慰安婦を強制連行したという公になされた加害証言は吉田証言のみとされているが、その吉田証言はその信憑性が問題視され、慰安婦問題を批判する側からも採用されなくなりつつある。


吉田証言
自著で、韓国の済州島において、慰安婦にするための205人の女性を強制連行したと告白し、日本、韓国、アメリカなどで、何度もそのことを証言して来た。自著では当時の命令書の内容まで詳細に記載していた。初めての、かつ今日まで唯一の加害証言として旧日本軍の慰安婦に対する強制連行の有力な証言として、扱われてきたが、秦郁彦、中村粲、板倉由明、上杉千年らの歴史学者の検証によって、その証言をはじめ、吉田の語っていた軍の命令系統から本人の経歴に嘘や矛盾があると指摘された[48][119][120]ため、旧日本軍による「強制連行」を否定する側からは捏造だと批反されている。

それらの証言に対する検証にやがて、吉田本人も慰安婦狩り自体を行なったということまでは否定していないが、時と場所だけは創作を交えたので事実ではないことを認め、その後も真実は明かしていないため、慰安婦制度を批判している吉見義明[121]や 上杉聰(日本の戦争責任資料センター事務局長)[122]も「吉田証言」は歴史証言としては採用できないとしている。
秦郁彦によれば、1998年9月2日、吉田に電話で「著書は小説だった」という声明を出したらどうかと勧めたら、「人権屋に利用された私が悪かった」とは述べたが、「私にもプライドはあるし、八十五歳にもなって今さら・・・・このままにしておきましょう」との返事だったという。[8]
付属文書で、当時の日本の慰安婦制度を国際法違反であるとした国連人権委に提出された「クマラスワミ報告書」は吉田証言を強制連行の証拠として引用している。
米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書(2006年4月10日付)に「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記されていた。改訂版の報告書(2007年4月3日付)では「吉田証言」が削除された。

元慰安婦の証言
韓国で初めて慰安婦であったことを証言した金学順を初め、慰安婦と名乗り出た者の証言の中に矛盾があるとして、その証言の信憑性を疑問視する指摘がこれまである[123](秦郁彦は雑誌『諸君』(2007年5月号)などで氏名不明の旧軍人との証言の突合せなどにより疑問を提起している。
吉見義明は1997年、研究者も強制連行であるとしていない文玉珠に対し、強制連行ではないと主張しても研究上では意味をなさないとしている。[37]。
1993年の韓国の挺対協などによる調査において、文玉珠の証言はそのときの最も明白な強制連行証言であった。それ以前の訴状には、騙されて掠われたことになっている。
ハイナンNET[124]による台湾元慰安婦の調査報告や石田米子・内田知行らの著作[125]によれば、最近の調査では1人の元慰安婦に数時間のインタビューを数回行い、日時・場所などについては他の資料とつき合わせて確認しており、研究者は証言の信頼性を確認しながら調査を行っているという。
河野洋平は官房長官として慰安婦に対する軍の強制性を認めた談話を発表した後、1997年3月31日付の『朝日新聞』のインタビューにおいて、「半世紀以上も前の話だから、その場所とか、状況とかに記憶違いがあるかもしれない。だからといって、一人の女性の人生であれだけ大きな傷を残したことについて、傷そのものの記憶が間違っているとは考えられない。実際に聞き取り調査の証言を読めば、被害者でなければ語り得ない経験だとわかる。相当な強圧があったという印象が強い。」と語っている。
1992年、ソウル大学教授の安乗直ら「挺身隊研究会」が慰安婦と名乗り出たうちの生存者55人中約40人に聞き取り調査を行なった。このとき一人あたり5、6回以上の長時間の面接調査、記録資料との確認、スタッフは報告書を3回以上輪読、その後の再面談、を経てまとめられたという。結果は半数以上が「意図的に事実を歪曲していると感じられる」などの理由から脱落し、最終的に証言集に掲載できたのは19人であった。この調査報告書では強制連行は詐欺(主)を含めて大部分だとしている。([20] p26p27)
現代朝鮮研究者の西岡力は、雑誌『WILL』で上記の証言集に掲載できた19人のうち、官憲等による「強制連行」だったと証言する女性は4人だけであり、その4人のうちの2人が自分が連行されたと語った慰安所は実際には実在しないことが判明。残りの金学順と文珠珠の二人は両名共、日本政府を訴えた裁判の訴状では元「キーセン」であったことを述べており、西岡が『文藝春秋』紙上でこのような指摘した後、金学順は「キーセンに売られて中国に連れて行かれたのだけど、業者の人と北京の食堂でご飯を食べていたら日本の軍人が来て連行された」とそれまでの証言を変えたという。[66][126]
NHK職員(当時)の池田信夫は1991年にNHKの終戦に関する番組制作のため、韓国で数十人の強制連行されたという関係者に取材したが、軍が連行したという証言は得られなかったという。[60]
1993年、宮沢内閣は「河野談話」発表の前に、韓国政府の強い要請を受け、元慰安婦16人の証言を聞いた。この元慰安婦の人選は韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」が行い、証言書には福島瑞穂弁護士などの立会い人が付き添った。日本政府はこの証言に対しては質問することも、裏付け調査をすることも許されず、この調査における慰安婦の氏名も証言内容も非公開とされたという。[127]
旧日本軍に強制連行されたと証言している慰安婦
金学順
ジャン・ラフ・オハーン

日本政府・軍関係

河野談話
日本政府が慰安婦に対する強制性を公式に認めた談話ではあるが、その意義や根拠について賛否両論を呼んでいる。

慰安婦裁判において、1998年4月の「関釜裁判」で山口地裁下関支部は河野談話の発表後、国会議員に賠償立法の義務が生じたとし、国の立法義務、立法の不作為を認め、国に対し、「慰安婦」側の損害賠償の訴えを一部認めた。(結果的には控訴審で棄却されることになる。)
秦郁彦は「日韓基本協約」において、日本は韓国に経済協力を支払ったが、当時の韓国政府は慰安婦に対する補償はまったく念頭になかったが、後に元慰安婦の補償を求める声が高まったため、補償はするが日本は慰安婦に対する「強制連行」を求めよとの要請に、(日本が「強制連行」したともしなかったとも取れる)玉虫色の「河野談話」が出されたと主張している[34]。
(詳細は「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」を参照)


軍関係者の証言
宮沢内閣の慰安婦に関する二次に渡る調査において、元慰安婦を強制的に連れてきたという人の証言を得ようと探したがなかったと元内閣官房副長官の石原信雄は語っている。[58]
「クマワスワミ報告書」においても、「慰安婦の募集に関する公文書はなく、証拠は元慰安婦の証言だけである」旨を記している。[8]
じんのおび トップライト テドラル なかよし ナベラル モルグ ベニデュ ムード フォワグ ビアガ 芽キャベツ セーラー ローレライ ビーフ シャッター トリノ むぐらふ ノッポ リップ チェン デコレータ サカユ ききょう キウイ デッド ハイウェイ ブロック シリーズ フィクシ ミレニアム リチェ リスチン かくぐう ラウィ フワン フラグ サーチトゥ ニック スポット レーベル 迷い道 カエサ タピオカ リトライ オブソ ソフトテニ ナンス カシミ プルーン おびひろ

資料
1934年3月、陸軍省兵務局兵務課が立案し、梅津陸軍次官が決裁した『軍慰安所従業婦等募集に関する件』とする通牒が北支方面軍及中支派遣軍参謀長宛てに出されていることが、旧日本軍が慰安婦の募集や慰安所の運営、管理に関与していた証拠である[128]と吉見教授が主張し、『朝日新聞』が1992年に一大スクープとして取り上げたが、これに対して、漫画家の小林よしのりは「慰安婦を誘拐まがいの募集を行なう業者がいるから注意せよという「関与」を示すものだ」と「よい関与論」を唱え反論した。しかし後に、これは、これに先立つ警察資料「支那渡航婦女の取り扱いに関する件」(警保局長通牒)1938-2-23などのそれ以前の流れから読むべきであるという指摘がなされている。[129]
1938年、内務省が各庁府県長官に宛てた通達では、中国に渡航させる慰安婦は満21歳以上の、現役の娼妓や醜業を営む女性に限定し、身分証明書の発行の際には、婦女売買または誘拐などがないかよく注意することや、募集に際し、軍の名をかたったり、募集の広告宣伝をする者、虚偽や誇大なことをいう者も厳重に取り締まるよう命じている。[130][131]
旧日本軍の慰安婦に関する関与を認めた「河野談話」発表に至る経過をめぐり、1997年1月と3月に、調査を実施した平林博・内閣外政審議室室長は、国会において「政府が調査した限りの文書の中には軍や官憲による慰安婦の強制募集を直接示すような記述は見出せなかった 」と答弁。同年3月には当時宮沢内閣の内閣官房副長官であった石原信雄も『産経新聞』のインタビューで、「随分探したが、日本側のデーターには強制連行を裏付けるものはない。」と明かした。
朝鮮半島・台湾などでは国家総動員法に次ぐ国民徴用令に基づいた挺身隊(女子の動員は1943年9月から)から、植民地女性を中心に慰安婦にさせられた場合があったとされているが、当人の証言以外には証拠は見つかっておらず、命令書等の公文書も存在しない。
慰安婦問題を批判する側からは、「強制連行」を指示する資料が見つからないのは旧日本軍が証拠資料を既に処分したという主張がなされている。河野洋平も2007年3月、「従軍慰安婦の徴集命令に関する旧日本軍の資料は「処分されていたと推定もできる」と指摘している。[132]吉見義明は焼却された政府資料があり、まだ公開されていない資料もあるとしている[21]。
「日韓基本協約」の締結に至る過程での日韓の懸案事項についての話し合いにおいて、「慰安婦問題」は一切持ち出されていない。

2009年01月15日

2C-I

チャージ タラソ パント トレード 赤ランプ ヒョウ ナブラ ブルマナ スラト トムトム あしたば おれたち シュズ ルームメ カミオ シシュフ パナマ ダウン すだち ダイナ オカル チンギス リージア ネオジ つるが リニティ バップ オロシ かいづか あつま 石榴 ジエンド プレッ ラウンジ ドロップ ビクー ひらら ビノク シェーカー ラタトゥ 麦わら イキシア パッチ ウイロ 麦わら帽子 単発ガ ネイビー ライフ ムスリム ロベリア

2C-I(にしーあい、化学:C10H14INO2)は幻覚剤の一種で、服用により幻覚作用を表す脱法ドラッグ。白?淡褐色の結晶状の粉、柔軟性があるフワフワした感じの粉などが日本において流通している物の外観。フェネチルアミン系の薬物であるため、2C-BやMDMAのデザイナードラッグと評されることも多々ある。味は苦い。

レクリエーション使用
2000年代の初めの頃、粉末状の2C-Iは、アメリカ合衆国や日本、アジアなどにある幾つかの研究用化学物質のオンラインベンダーから購入が可能となった。2002年から2003年にかけて、デンマークやイギリスにおけるレイヴやクラブシーンにおいて、錠剤型の2C-Iは、LSDやアンフェタミンの混合、MDMAの錠剤と称されクラブドラッグとして販売されていた。トロントのレイヴシーンにおいて、GHBと同様に薄められた液状の形態で売られているものが購入できる。日本おいて、オンライン通販や露店などで販売されている。ただし、行政の取締強化に伴い販売業者は相次いで閉店し、購入は困難である。

使用方法と効果
2C-Iの使用者は主に、これを経口摂取する。経鼻摂取(スニッフィングとも言う)、粘膜摂取、筋肉注射、静脈注射をする者もいるが、2C-T-7で、経鼻摂取でオーバードーズ(薬の過剰摂取)し、死亡した人がいるという情報があるため、経鼻摂取は、基本的に好まれない。経口摂取時は10から25ミリグラムほどが適量な摂取量といわれている。他の経口摂取をする薬物と同様に、空腹時に摂取をすると吸収効率が良い。

摂取から30分から1時間ほどで効果が現れ始め、5から10時間ほど持続する。まず最初に腹痛を訴えるものも多いが、これは1時間ほどで大抵の場合収まる。効果は五感の歪みを感じ、精神的な幻覚作用もある。また場合により多幸感もある。瞳孔拡散も起こるので、幻覚効果と相まって色や光彩の変化も起こる。多量摂取時には、多汗や動悸を訴えたり、パニックを起こす者もいる。

摂取の翌日、頭痛を起こす者も多い。また他の脱法ドラッグよりフラッシュバックも起こりやすい。

誰も2C-Iの危険性に関する研究を行っていないため、2C-Iの危険性がどの程度あるかは分かっていない。ただ、甲状腺機能亢進症になった、視力の低下が起こった、自律神経失調症になった、などの報告がある。

適法性
デンマークやドイツ、ギリシャ、アイルランド、イギリスなどの幾つかのヨーロッパの国々において、2C-Iは違法な規制物質となっている。2003年11月、欧州理事会はすべてのEU加盟国にむけて、3カ月以内に2C-Iの禁止を強制する拘束力がある指示を出した。

アメリカ合衆国において、2C-Iは規制物質法に基づくスケジュールや規制がされていない。しかしながら、規制物質法の基でスケジュールI薬物に指定されている2C-Bに構造や効果が似ていることから、連邦類似化合物法(Federal Analog Act:規制物質法に含まれる項目。規制物質法におけるスケジュールI及びII物質に類似した物質は、この項目により取り締まられる可能性がある。)に基づき、2C-Iの所持及び販売は潜在的に起訴される可能性がある。ウェブ・トリップ作戦において、麻薬取締局は2C-Iを含む連邦類似化合物法に触法する物質を販売していたオンラインベンダーを、告発している。

日本において、麻薬及び向精神薬取締法に基づく取り締まりは行われていない。東京都では東京都薬物の濫用防止に関する条例で東京都知事指定薬物に指定されており、都内での販売や使用、所持などが規制されている。厚生労働省による2005年からの取り締まり強化に伴い、2C-Iを含む脱法ドラッグ販売業者は同省により薬事法に基づく指導・告発が行われている。また、2006年4月22日に麻薬に指定された同じフェネチルアミン系化合物である2C-T-7、MBDB同様、国内でも麻薬指定になる予定である。 2008年1月18日に2C-T-2,2C-T-4とともに麻薬指定された(新たに指定された麻薬等)