天正19年(1591年)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。そのため、11月に秀吉の養子となり、12月には秀吉の後継者として、豊臣姓を贈られ、関白職を譲られた。
そして聚楽第に居住して政務を執ったが、秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。その後、唐入りに専念する秀吉の代わりに内政を司ることが多かった。
しかし文禄2年(1593年)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、秀吉から次第に疎まれるようになる。秀頼と秀次の娘を婚約させるなど互いに譲歩も試みられたが、けっきょく文禄4年(1595年)7月8日、秀吉の命令で高野山に追放され、出家した(これ以降、出家した関白=禅閤となり、豊臣の姓から豊禅閤〈ほうぜんこう〉と呼ばれた)。同年7月15日に切腹を命じられ青巌寺・柳の間にて死亡。享年28。
死後、秀次の一族・妻妾・息子・娘・家臣の多くが粛清され、秀次の首は秀吉によって京都の三条河原に曝された。
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秀吉により、新たに秀頼が後継者へ指名され、秀吉の死後、秀頼が家督を継いだ。
それまででも比叡山においての鹿狩りなどで悪評が強かった[要出典]秀次であったが、文禄元年(1593年)、秀吉に新たな子豊臣秀頼が生まれると関係が決定的に悪化した[1]。
文禄4年(1595年)に秀吉によって謀反の疑いをかけられることになる。同年7月3日、聚楽第に居た秀次のもとへ石田三成ら五奉行のうち4名が訪れ、秀次に対し高野山へ行くように促された[2]。 同月8日に秀次は謀反についての釈明の為に、秀吉の居る伏見城へ赴くが、対面することが出来ず、同日高野山へ入り、それから1週間後の15日に秀次のもとへ福島正則らが訪れ、秀次に対し秀吉から切腹の命令が下ったことを伝えられ、同日、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々が切腹することになった[2]。秀次は雀部重政の介錯により切腹し、そして重政と東福寺の僧侶玄隆西堂も切腹した[2]。秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、秀次の首は三条河原へ送られた[3]。 そして、同年8月2日(9月5日)には三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び正室・側室・侍女ら併せて39名が処刑された[3]。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた[3]。その後、秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた[3](畜生塚)。なお、秀次に関連した大名は監禁させられ聚楽第も破却された。
ただし、秀次の妻子が皆殺しにされたわけではない。淡輪徹斎隆重の娘・小督の局との娘のお菊は女児であり尚且つ生後一ヶ月の幼さであったためか助命され、お菊の祖父の弟の子の後藤興義に預けられた。また、のちの真田信繁の側室・隆精院、梅小路家に嫁いだ娘の二人も難を逃れた。他にも正室である池田恒興の娘・若御前も助命され、兄・輝政のもとに送り返されている。
この秀次ら一族処刑に関して、その経緯を記した絵巻「瑞泉寺縁起」が京都の瑞泉寺に残されている